新刊本コーナーからの本の第3弾「天然知能」(著者:郡司ペギオ幸男 発行所:講談社)です。表紙に図のようなイラストが描いてあって、ちょっと不気味な感じがあったのですが、題名に惹きつけられ借りてしまいました。 どこかの芸能人が書いているエッセイかなと思いきや、早稲田大学の理学博士の教授が著者でした。哲学書様なので、とても流し読みできる本ではなく、途中で断念しました。 また、いつか読むかもしれませんが。 ただ前半読んでみて、数パーセントは理解というよりは同感するものがありました。 以下の資料に、本に記載されたものと私がWebサイトで見つけたものを合わせて説明してみたいと思います。
資料はこちら → 天然知能
p.1 「人工知能」「天然知能」及び「自然知能」が夫々1人称、1.5人称及び3人称として分類されるそうです。人工知能と自然知能は、視点が違うだけで似ています。すでにある経験や知識に基づいたもので、天然知能だけが性格が異なります。知覚されない存在を許容あるいは想像することだそうです。下に3つほど例を示しました。夜間に空に見える光が飛んでいる現象について、人工知能は、蛍、ヘリコプタのライトあるいは人工衛星ではないか予測しますが、過去からのデータでは特定できず計算不能状態になってしまいます。 これに対し天然知能は、UFOではないかと想像します。 夜の柳は幽霊、湖面の流木を見て天然知能はネッシーを想像します。人工知能が夢を見た場合の「ディープ・ドリーム」(悪夢)を検索してみたら、気味が悪い画像が現れました。見ない方がよいと思います。
p.2 我々は両目で物を見ていて、左右の網膜に映っている画像は異なることから視差を生じます。以前のブログで「2つの絵を1つにしたがる脳」で微妙に違う2枚の絵を虫眼鏡で見ると異なっている部分が立体に見えるという話をしました。まさに「両面視差」で立体に見えるのは、網膜に移った2次元画像を脳で3次元になるように合体させているのです。 遠方の風景については、両目視差はなくなり平面的に見えます。この平面的に見える背景の「向こう側」を想像するのが天然知能だそうです。人工知能は、見ることによって得られるデータがないと「向こう側」は想像できないのです。 このことで思いついたのは、先のブログ「第6の幸せは?」で紹介したマザーグースにある歌「The Bear Went Over the Mountain」です。左下に歌詞を書いておきました。 クマは山に登って山の向こうを眺めていますが、山の向こうにはまた山があります。そのまた山の向こう側には何があるのでしょうか?想像するしかないですね。 このことを著者を天然知能と呼んでいるのではないかと私は解釈しました。
この歌はこちら → https://www.youtube.com/watch?v=PGJuoodm_BM
p.3 オオウツボカズラは、ネズミぐらいの小動物であれば、足を滑らして飲み込んでしまいます。まさに「森の罠」です。 ところが、ツバイという動物は大きいので、ちょうどよい便器になるそうです。ツバイが蜜を飲むと便意が生じて、糞をオオウツボカズラの便器に落とすそうです。この糞が栄養になります。「森のトイレ」にもなるように進化しているわけです。つまり、外部を受け入れられるものが天然知能なのだそうです。
以上、私が解釈したことは、過去の経験・知識に基づいて判断する人工知能ではなく、人間らしく外部を受け入れる想像力つまり天然知能を大事にしなさい、あるいは鍛えなさいと警鐘しているのではないかと思います。想像する能力が人間の特権なのだから。